準透明であることについて
職に就いてからより忙しくなって、気がついたらこのニュースレターにも随分と埃が積もっていた。
私が尊敬していたり好きだと感じる人はどこか諦念を含みつつ意志を持って生きている人である場合が非常に多いのだけれど、そんな人の一人である大学時代のセンパイがブログを書き始めていたので、私も久々に筆(キーボード?)をとることにした。
社会的な関わりを構築すること、そしてそれを喪失することによる自己否定、確かにそうかもしれないのだけれど、人はどこかしら透明さを持ちながら生きているような気もする。
一般的でないとされる属性、さらにスティグマを付与される属性を持つ人は社会から見えないように排除される。ある時は余分な書類の提出を求められて何かを断念せざるを得ないように。またある時はそもそもその存在を認められないように。
排除されるとき、それはそこにいる人々から見えない場所に追いやられるということであり、完全に透明な存在にされてしまうことでもある。
それは非常に厳しいものだから、私たちは擬態をすることになる。自分の一般的でない属性の部分を隠してそんなものはあたかも最初からなかったかのように、完全な透明人間にされないように一部を透明にして準透明になるのだ。
そう考えると少し肩の力が抜けつつ、でも改めてしんどさを噛み締めることになる。透明になることはすべてに拒絶されることで、でもすべてを拒絶することだから居心地はあんまり悪くない。でも自分の存在がなかったことになっちゃうのはいやだから抗いたくなって準透明に戻る。
恋愛感情が薄いこと。“どちらでもない”存在であること。幼い日の欠落。積み重なれば積み重なるほど、透明にしなければやっていけない部分が多くなる。誰と居ても独りなのはきっとそういう部分もあるのだろうな、と思う。
それでも他者から受けるベネフィットのほうが、他者を完全に拒絶することで生じる精神の安寧よりも大きかったりするから私たちは今日も社会をやめられないのだと思う。でもそんなに関わらなくてもよくて、出会ってすぐのキツネと王子位の距離感でいられたらいいな、と思ったりするのだ。具合が悪くなったりするとパートナーがいると楽なのかもなって思ったりはするのだけれども。
何の因果なのか、人と、しかも年若い人間と関わることの多い職で食べているのだけれど、透明にならなくてもいい、でも透明になりたかったら透明でいてもいい。そんな場所を少しでも提供できたらいいな。なんて思っている。
誰かを救ったり、道標になったり、そんな力も素敵さもべつにないのだけれど、ところどころ透明になりながら少しでも透明にならなくてもいい世界を作り出せたらいいな。なんてとりとめもなく思っているのでした。
遠い夜の向こう側で透明じゃなくいられるように。
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