それぞれのドア
大人になっていくことは、たぶん失くしていくことなのだと思う。正確に言えば失くしていく経験を積んでいくことなのだと思う。
例えばもう言葉がなかった世界は思い起こすことができない。言葉にならないほどーと思った時点でもう言語のフィルターは通過していて、言語化が追い付かなかっただけだ。小石を空へ放り投げたら落ちてくるのは何ら不思議じゃない世界で生きているということは同時に、それらを不思議に思う新鮮さや感性をその部分において失ったことを意味するような気がするのだ。
大人になった、と思ったきっかけはなんだっただろうか。私の場合は至極実務的な話だったかもしれない。18歳になればたいていの場所で働くことができる。訳ありで正規で働けなかったとしても都会に出れば何とか食べていける。だから今の場所を失くしたところで大丈夫だ。一匹で生きていけると思えたのが18歳で、それが大人だと思ったきっかけだったのかもしれない。
大人になったと思っても大人なんて不明瞭だし子供の延長だし、逆に今はそんなに固執していないような気もする。18歳のころはとても何かに怒っていて、20歳くらいになるころには客観的に怒れるようになっていて、今はその怒りもいろんな人の記憶と結びついて少し愛しかったりする。怒りの瞬間的な熱量は確かに18のころより小さくなった、というか抑えられるようになったし、あそこまでの向こう見ずさはやはり失ったのだと思う。
怒ることに限らず、どんなふうに立ち回るか、どんな選択をするかという無数の問いの中を生きていくということは、選択しなかったほうの未来を常に失い続けるということだし、不可逆的に流れる時間の中を生きるということは必然的に未来を選び取らざるを得ず、したがってそれは過去を過去として保存していく。すなわち終了した事象への操作可能性を失うということでもあると思う。過去は変えられない。というあれである。
何を失うか。代わりに何を失った経験を積むことができるのか。それによってどんなふうに世界に影響を及ぼせるのか。割と選ぶことは簡単ではなくて立ちすくむ日もたまにある。それでも私たちの時間は有限だ。きっとそれぞれの天秤で、それぞれのドアの前で、天秤が掲げたほうを失う選択を、私たちは再会を願って続けていくんだろうと思う。
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